3月11日

 宮城県沖で発生した地震の波高は10m以上で最大遡上高も40.1mにもなり、死者15,899人、行方不明者2,529人は戦後最大の自然災害で、通称「東日本大震災」と言い、9年前の今日16時20分に発生したのだが、被災者や被災地にとって終結は大分先のことなのだ。

 その中で、2つの記事に目が留まった。

1つ目は『本当は違う「釜石の奇跡」』と言う朝日デジタル記事なのだが、その「釜石の奇跡」の現場にいた菊池のどかさん(24才)の体験談なのだ。  小中学生3千人のほとんどが助かり、鵜住居地区では中学生が小学生の手を取って避難した-と称賛されているのだが、その中学3年生だった菊池さんに拠れば、

『鵜住居小と釜石中学生だけでも、当日欠席していた2名が亡くなっていて、当日帰宅しようと校庭に居た菊池さんたちは副校長の「何しているんだ!走れ!」との声に、鵜住居小学校の校庭を駆け抜けるとき小学生は避難して誰も居なかったが、高台まで逃げた。  だが、消防団員が言った-「ここも危ないぞ!」 

 教員らの判断もあり小学生の避難が始まり、より高い所へと全員が走る時、

「合流して初めて、私は小学生の手を引き走ったんです。 泣きじゃくる子も居ましたし、母親に連れられた幼児を見つけ負ぶって駆け上がる男の子も居たし、勿論一人で走る子も居ました・・・

(釜石)市が「釜石の奇跡」と名付け、遺族からの批判を受けたが市は表現を変えなかった。

私たちが助かったのは、消防団員の的確な指示と近所の人の助言のお陰。 運や偶然も重なって生かされたんです。一般的な防災教育だけではダメだと思います。  地形を知ること普段から近所の人達との交流が大事です」

 もう一つはアメリカ軍の「トモダチ作戦」だ。

2001年に発生したアメリカ同時発生多発テロに、日本から駆け付けた消防救助隊が切っ掛けとなり、被災者の救助、被災地の復旧・復興の決め手の一つが「仙台空港の復旧」だったが、肝心の自衛隊仙台基地が機能不全状態だったところに、米軍の支援(トモダチ作戦)で仙台空港が使用可能となり、復旧・復興の起点が出来たのだったが、作戦に参加した米兵は、シャワーすら浴びる余裕も無かった-と言う。  現場を見た米兵は、被災地の人達の行動にも動かされたのかも知れないが、仙台空港は僅か1か月で復旧した。

毛呂古酒's Ownd : 閑話休題

世間的には後期高齢者と言われるが、今暫く閻魔様にはお茶でも飲んでいただけるよう頑張ってみようかな?

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