今日も昼は蕎麦だ。 近くの梅林で「梅まつり」の最中なので今日も満席だろうと思ったが、郵便物が在ったので止む無く「山富貴」に着くと、駐車場は駐車スペースの空きが在った。
ホール内に行くと空きテーブルが半分程度あり、二人掛け用も空いていたので座ると、パート店員がウエルカムセットを持って来た。
「今日は、発芽(蕎麦)にしますか(?)更科(蕎麦)にしますか?」
なので、「発芽(蕎麦)をお願いします」と言う内に、若女将が新聞を持って来た。
1面記事を読み終わる前に盆が運ばれて来た。 付け足しはローストビーフだったが、「これ、会長が作った梅羊羹です!」
ところで、この処の話題だが、公立福生病院で起きた「人工透析患者の死」だ。
新聞記事に拠ると、
『昨年8月、腎臓病患者の女性(44才)に対して外科医が、人工透析治療の止める選択肢を示し、透析治療中止選んで1週間後に死亡した』と言うニュース。
腎臓機能が衰え人体の老廃物を取り除くことが困難になるとき、人工の腎臓で体内の血液の老廃物や毒素を除去しなければならない。
専門知識が無い僕に、このことについて評価する資格は無い-とは判っているが、「ヒトの死」なので言わせていただこう。
人が「どう生きるか」さえも曖昧なのに、究極の「死の選択」が出来る人は殆どいません。
あのスイスでさえ、
『(安楽死を)希望者が提出した医療記録を医師が審査し、「治る見込みの無い病気で、耐え難い苦痛を伴うなど、裁判所が認めた場合に限り、致死量の麻酔薬を処方されて安楽死が叶えられる』
としているのだ。
なのに日本では、80%以上の方が「医療機関で死を迎える」のだが、受け入れた医療機関では「医療の提供」であり、「適切な説明を行い、医療を受ける者の理解を得るよう努めなければならない」と定められており、患者の自己決定権を行使するために情報を提供する運命なのであり、人の運命の選択に係る宗教家には程遠い存在にも拘らず医療機関が「死ぬ場所」化しているのだ。
当該女性の「死」に対する揺れ動く心情を、本人でさえ「死んでしまえば振り返ることが出来ない」選択を一刀両断に決定することは、医師が「治る見込みが無いこと、耐え難い苦痛が続くこと」を懇切丁寧に説明し、当人がより良い選択が出来るよう援助するしかないのが現状だ。
数回の説明で、「本人が納得したから」では、如何にも安直だ。
0コメント