第2次世界大戦後の東ドイツ・リーツェンで、37才で病死した日本人医師・肥沼信次(こいぬまのぶつぐ)が死の直前に言った言葉だ。
昨日のTV東京「なぜそこに?日本人」で取り上げられた肥沼信次医師は、当時の医療最先端の国ドイツに留学し、第2次世界大戦の最中ドイツの各地で診療中に終戦を迎えたのだが迎えた場所がソ連軍に占領されたリーツェンだったのです。
その戦争で建物や上下水道が破壊されたリーツェンの町で発疹チフスが流行したのだが、リーツェンには肥沼医師しか居らず、占領下に置いていたソ連軍は肥沼医師にリーツェン感染病センター長を要請。 当時の発疹チフスは「死の病」と言われていた時代だったが、医師を志したときの「目の前の患者を救うこと」の信念を貫き、僅かに残った看護婦と共に不眠不休でチフスと戦ったのだ。
そんなある日、往診に出掛けたとき、ギセラと言うチフスの末期症状の少女に出会うと、ソ連軍の野戦病院の治療薬を探し廻り、断られても頼み込み漸くギセラの治療が出来た-と言うことが、治癒し薬剤師となったギセラさんの証言からの逸話、しかも、治療に使用した薬代も肥沼医師は請求しなかった由。
しかし、チフス感染には細心の注意を払っていた筈の彼だが、体力の低下も重なり発疹チフスを罹患後僅か2日後に、「桜が観たい・・・」と言って亡くなった-との当時の家政婦だったイムガルトさんの証言。
自らの意思でドイツに残り、ドイツの患者のために尽くした彼の心には祖国日本が在ったのだろう。
40数年経って現地を訪れた肥沼信次医師の弟栄治さんはリーツェンに桜100本を送ったとのこと。
間も無く、地元住民は恩人肥沼信次医師の墓参りと桜を見る頃が来るのだろう。
異国に咲く武士魂、100本の桜に献杯!
昨日の散歩途中の畦道では、雲雀がさえずる下で紫色の小さなスミレと西洋タンポポ1輪を見付けた。 1日1日春が愛でる。
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