出羽の国米沢藩藩主上杉鷹山の時代、江戸(時代)の3大大火(明和、明暦、文化)の一つである明和元年の「目黒行人坂大火」で江戸屋敷が焼失し、再建のために藩内の木々が伐採、その数年後も藩内で起きた大火で大量の木材が伐採された。
このことが理由かどうかは判らぬが、山形県の置賜地方の路傍には50基以上の「草木塔」と記された石碑が在ると言う。
現在日本で確認されている木や草を供養する供養塔は160基ほどだが、江戸から大正時代までに建てられた供養塔は55基。 その内、福島県と岩手県に1基づつ在り残りの53基は山形県の置賜地方に存在するのだが、その多くが湯殿山(神社)への参道沿いに在ると言う。 そのことから、単に木を伐採したことによる供養ばかりで無く、「山岳信仰」が影響しているのかも知れない・・・
さて、何故僕が「草木塔」のことを取り上げたのか-
暫く前のコトだが、町内の蕎麦屋に偶々入ったとき「論語を語る会」のチラシを見付け、参加したいと店主に申し込んだ。 が、理由は定かで無いが開かれなかった。
多分、参加者が少なかったのだろうが、主宰者は須藤澄夫氏。
群馬県片品村出身で我が町の中学校の教員から県庁に異動し、出会った時は飯能市の副市長。
「さいたま芸術劇場はオレが作ったんだ」
彼が県庁に在籍中、与野(さいたま市)の「彩の国さいたま芸術劇場」設立に携わったらしく、音楽が趣味なのだろう飯能市内の私営ホールで音楽大学生による生演奏を聴くチャンスを数回開催してくれ参加した。
更に、「草木塔」と書いた木札をプレゼントしてくれたのだが、彼は老荘思想にも興味を持って居たのだろうか・・・
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