守ろうよ交通ルールと自分の命

 さて、今日はパートタイマーの日なので出勤したが、配達先は1か所だけだったので10時前に終えてしまい、作業所で働いている仲間を尻目に、

「お先に失礼します」とその場を出て来るのだが、同僚たちの、

アタシたちは働いているのに・・・と言う目を気にしているのだが、そこは「時間給だから」と割り切るしかない。

 で、早く終わった分、時間を潰して「去来庵」に行った。

今日のメーンデイッシュは「アサリの炊き込みご飯」で、主菜は「マゴチの昆布締め」と「昆布の煮しめと筍の水煮とナスの煮びたし」副菜に「黒豆のオカラ」と「ポテトサラダ」で、食後の寺内氏との珈琲タイムで1週間のモヤモヤが飛んでしまうのだ。

 話しは変わるが、

隣町の今宿と言う交差点脇に、「守ろうよ 交通ルールと自分の命」と大きく書かれた標語が立っていた。  誤字が在った訳では無いし、大分前から看板が立っていたので気に留めず通り抜ければ良かったのに、エエ・・・⁈と思ってしまったのだ。

 「交通ルールを守ろう」と訴えるのに異論は無く、それでも敢えて訴えるからには、この交差点でルールを守らない、守れない利用者が多いから-なのだろう。

しかし、後段の「(守ろうよ)自分の命」だが、江戸の時代ならいざ知らず、個人主義の尊重を基盤とする現代日本社会に於いて、自分の命を「守る」ための規制(法律)を構築しようとしても難しいだろう。

 「命が大切」と言う言葉に異論は無いが、自分の命を「守る」、或いは「守ろう」とする行動は、その個人の道徳観なのであって、法規は複数以上のヒト社会に必要なモノで、一人の人間(社会)に法規を設けても無意味で、増してや、テロメアによって組み込まれた遺伝子を差し替えることなど、「神」でも不可能なのだ。

「守る」も「守りたい」も、「守」と言う(漢)字は使うのだが、例えば第三者の加害行為に対して、自分の命だから自分で「守りたい」と言う気持ちが在ったとしても、「守ろうよ!」と言われても守り切るには限度が在り、守り切れなかったから罰則を科すナンてことになったら可笑しいだろう・・・

 だが、この交差点を「赤信号を無視して横断する人が多い」となれば、理論上成り立つことだが、この町は「埼玉県内では1番無事故続いている町」の横断幕を掲げているので、この交差点だけ信号無視する住民が居るとも思えない。

増してや、同乗していた車がこの交差点で赤信号(一瞬の運転者の判断ミス)で受傷した場合、事故る前に脱出ボタンを押して逃れることが可能ならば出来るだろうが、シートベルトの着用以外自分の命を守るスベは皆無に近い。

 なので、この町が自殺行為にストップを掛けたいと意志表示することは理解するにしても、交通ルールと同質に、「守ろうよ」ナンて看板を高々と掲げられるものでは無いだろう・・・ヘンかなあ・・・


毛呂古酒's Ownd : 閑話休題

世間的には後期高齢者と言われるが、今暫く閻魔様にはお茶でも飲んでいただけるよう頑張ってみようかな?

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