「俺は、一生懸命やっている。 この仕事はこうやれば出来るし、そうすればいくら位入って来るし、家計だってその中から計画的に支出すればやっていける・・・。 やることをやれば良いんだから・・・難しいことは無いんだ! やることをやるだけなんだ! 何にも難しくは無い!」
「そうさ、その通りだ。 何にも難しいことでは無いんだから、やることをやればいいのさ。
だけどねェ・・・、解っているけど、もう出来ないんだよ・・・出来ない状態なんだよ・・・。
そこんトコロを解って呉れないかなァ・・・。」
「・・・、じゃあ、俺がそこまでやるから、出来ることをやって呉れれば良いよ。 兎に角、家にいて呉れれば良いよ。」
「そうなんだなあ・・・。 幸せをつくろうと頑張っているんだよなァ・・・。
誰が悪いとか、どっちがどうとか言うんじゃ無いし、そんなことは解っているし・・・、他人がどうのこうの入ることでも無いし・・・。 二人で解決出来ることだし・・・、でも・・・、相談されると放って置く訳にもいかないので・・・。」
「幸せな家庭をつくろう!」 希望を持って、頑張っている君を認めるよ。 厳しい中で、よく頑張っているよ! 「流石だ!」と褒めたいよ。 だけど、ねェ・・・
自分で自分をコントロールする力が消えてしまった。 医師が診れば病名が出るし、入院になるかも知れないのだ。
追い詰めて、病気になって長期療養をすることを望んでいる筈は無いのだろうから、余り「期待」をせず、放って置こうよ。 そうして呉れよ、なァ・・・。
期待は、失望の母なのだ。 仕事や夫婦関係でも「相手(他人)への要求・期待」は常に在るのだが、期待は「完璧主義」を生み出し、「完璧」を求めて相手に壁を作らせる-
「そんな積り」じゃ無かった-筈だ(よねェ・・・)。
でも、期待は失望を生むし、自分さえも追い詰めてしまうことが在るのだ。
「依存時代」を作ってしまってゴメン! 自立した-と言うことはパートナーからの自立でも在るのだ。 「共に頑張って行こう!」は良いんだが、それは希望で在って期待してはいけないんだ。 自分が頑張っているのを毎日見ているパートナーだから、「共に!」なんてアピールしなくても、同じ方向を必ず向いているのだから・・・。 「二人三脚」は美しく見えるが、割とコケるよ。
自分は自分なりに走る- それに刺激されてパートナーも頑張る。 結果として「良かったなァ・・・」なのだろう。
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