「世界の記憶」上野三碑(こうずけさんぴ)

 日本から、ユネスコの「世界記憶遺産」として登録された件数は7件だが、7件目は高崎市内に存在し、日本に18例しか現存しない古代の石碑で、半径5km内に3基在るのだが、建立されたのは何れも1300年以上前。  それぞれの碑は形状が異なるが関連は在るもの-とのこと。

 3碑の内、「多胡碑」は「羊」と言う渡来人を初代の群長官にして建郡した-ことを記した記念碑で、「山上碑」は放光寺と言う寺の僧「長利(ちょうり)」が母親のために建立したものであり、「金井沢碑」は三家氏(みやけし)を名乗る豪族が、先祖の供養と子孫の繁栄を祈って建立したものなのだが、これ等の記録形態は、当時の都(飛鳥、奈良)から遠く離れた上野の国(群馬)に住みついた朝鮮半島からの渡来人に依って作成されたものなのだ。

 現日高市(埼玉)に1300年前、高麗神社が祀る「若光王」を中心に高麗郡を建郡したのだが、

「羊」と言う渡来人が群の長官となったことを記した「多胡碑」は和銅4年(711年)に建立されたのだ。

このことから、朝鮮半島からの渡来人は、当時の都(ヤマト王国)から遠い「東国」に行かされたのだろうし、「山上碑」等からこの東国がヤマト王国の国領地だったことも判る。

 また、2012年12月に渋川市の金井東裏遺跡から見つかった「鎧を着たままの遺骨」は、調査の結果、1500年前の身長164センチの男で、その骨格から渡来人であることも判明したのだ。

その人骨の近くからは3頭の馬の骨も見つかったが、当時(古代)の牧場は「火山の傍」に在ることから、馬の産地伊那谷から人馬ともこの地に移住した人物で、榛名山の噴火を鎮めようとした人物と想定されたのだ。

 いずれも渡来人であり、それまで居た現地人から「一目置かれる」存在として、多くの渡来人が上野の国に溶け込んでいた-と推測できロマンは拡がる。

毛呂古酒's Ownd : 閑話休題

世間的には後期高齢者と言われるが、今暫く閻魔様にはお茶でも飲んでいただけるよう頑張ってみようかな?

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