パート先での雑談だが、相模原の障がい者施設での事件に絡み、「(知的)障がい者は役に立たない・・・」と言う意見が出た。 本心では無い(?)と思うのだが、必ずしも当たらないだろう。
障碍者の家族にとって、「泉」かも知れません。 障害者施設で働く人の働き場所であって欲しい。
10年位前になるだろうか、我が家の近くに特別支援学校が出来、知的障碍のある子供たちの通学する姿が日常化した。 その頃は、学校前は勿論、バス停からの通学路がランニングコースなので、何時ものように彼ら彼女らに出会う内に気付かされたことがある。
車がほとんど通らない道にも拘らず、交差点がカーブしている影響から横断歩道が20mも離れているのだがキチンと歩道まで行って一列で渡り、「こんにちわ!」と言うと、返事が皆から返ってくるのだ。 見かけも動作も見慣れていないし、時折り奇声を上げる子も居たので、当初は避けていたのだが・・・。
「嫌なものは嫌」だし、痘痕も靨(あばたもえくぼ)なのだろう。
だが、歳を取った所為なのだろうか(?)、生理的な判断より理性的に判断出来るようになったと思える。 自ら選んだのでは無い運命を、差別すべきでは無い-誰もが是認するだろうと思うが、ドッコイ、「嫌なものは、嫌」なのも事実だ。 否、「嫌なものを認めろ!」と叫んでも、生理的に受け付けない人が居ることも認めなくてはいけないのだ。 典型的な表現として、
「うんこは汚い。汚いものは嫌だ」 皆さんは、どう判断しますか?
昨年4月1日施行された障害者差別解消法。 国連の「障害者の権利に関する条約」締結に向けてようやく日本で制定されたのだ。
TV番組を見ていると、「農村に残る村八分。 大分県弁護士会が、是正勧告」とのニュース。
2009年に親の介護でUターンし就農した男性が、農地や水路整備の補助事業の補助金が受けられない理由として「その地域の(以前からの)構成員では無い」こと、それに反発したために、「村八分」にされたのだ-
Iターン、Uターンを期待する自治体が多いが、収入源が少ない地域では共同(協同)精神が欠ける傾向が在る。 理性が無いのでは無いだろう。 経済(優先)社会に於いては、「弱いものが犠牲になる」-京都・清水寺の襖絵を描いた風の画家、中島 潔の代表作:金子みすゞの「大漁」を思い出す。 大きな魚の攻撃に対し、イワシは群れを成して逃げるのだが、身体の弱ったイワシが群れから離れ犠牲になるのだ。 イワシの方が理性的なのか? 否、生理的に群れから抜けるのだ。
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