相模国足柄郡の百姓・二宮利左エ門の長男として生まれた金治郎(金次郎)は、5歳の8月、台風に因る酒匂川の決壊で家や田畑を無くし、25歳の時にも身を寄せていた叔父宅の田畑も台風被害で失ってしまったが、田植えの際に余って捨てられていた苗を用水掘りに植え、米1俵を収穫したり、堤防にアブラナを植え菜種油を採って燈油にし、倹約努力して世家を復興させた。
その後、貧窮していた母方の実家や二宮総本家の再興を実現し、34才の時に士官。
荒廃していた下野国芳賀郡桜町(現在の二宮町)の復興を成し遂げ、1833年の天保の飢饉では領民の救済を図り、小田原の救済や下館の救済を成功させ、その努力の結果、55才の時に幕府に召し抱えられ、普請役格となった。
経世済民を目指して、報徳思想を普及した二宮尊徳(たかのり)-
ムリ難題を求められても、じっくりとそのコトに向かった尊徳。
二宮尊徳に一度面談した勝海舟は、次のような感想を言ったらしい。
「至って正直なヒトだったよ。 全体的にあんな時世には、あんな人物が出るもんだよ・・・」
さて、
今日は昼過ぎに、渋柿採りをした。
父親の実家には樹齢50年にもなろう渋柿の木が在り、誰も収穫しないので、数年前から干し柿づくりにチャレンジしているのだが、「買い食い」なのでヤル気スイッチが入らずにいる。
収穫を終え、いつものように「ほっと」に行くと、駐車場に見慣れた軽自動車が在った。
ゲイジュツ家の近藤氏の車だ。
名刺は、日本クラウン株式会社近藤音楽事務所の作詞・作曲家、山之芳之-となっているが、生業は不明。
なのだが、モノづくりは玄人はだしで、頂いた作品は我が家の玄関に鎮座している。
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