「汁を下さい!」
「山富貴」のホールに入ると、先客の声が聞こえた。
店員が、僕が座る席の前を通り、新たな猪口と湯桶を持って先客の席に行った。
やがて、僕の席に「更科蕎麦」が来た。
割り箸を割り、早速、一つまみを猪口に入れ、薬味を入れて頬張りススーッと啜った・・・が、「ナンだこりゃ・・・汁じゃ無いぞ!」 不味い! 味が無い!
女将が通ったので声を掛けたが通り過ぎて行く・・・
止む無く、練りワサビを付けたが、気の抜けた蕎麦で、残った汁に(蕎麦)湯を入れると、汁の匂いも味の全くしない・・・
直ぐに食べ終え、フロントへ行き、「今日の汁は、不味かったよ! 味が無いし・・・」というと、
「社長が作ったんですが・・・そうですか、道理でお客様から『汁が足りない』って、言われたんです・・・」
少なくとも、「山富貴」は醬油や味醂、(鰹)節を表示して、「信頼」「信用」を売りにしている店の筈だったのだ。
蕎麦屋は、「蕎麦を生かすも殺すも、汁次第」なのだ。
嗜好は別にして、何度蕎麦を浸けても最後まで味が変わらないのが『うまい汁』だ。
蕎麦湯を入れても、醤油、味醂、節が解かるようではダメ。
薄めて飲んでも味が変わらないコクの在る出汁-
「並木藪蕎麦」の堀田勝三氏は遺稿で、
「汁取りの極意は、節、醤油、味醂の三味が混然と融合して、何の材料で出来たものか判らぬ所まで行かねばならないのだ。 三味の内、どれが不足でどれが過ぎているかが解る様では、駄目だ。 究極は六感だ」
と言う。
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