秋田サービスセンターに所属していた26年前の12月末のこと、八戸沖で起きた地震(三陸はるか沖地震)に2週間の現場損害調査を終える頃、「又、地震が起きるぞ」との噂が広まっていた。
すると、「大阪で地震が起きた! そこから直ぐ本社に行け!」との一報。
一旦東京駅に行き、数年振りに新幹線で新大阪へ・・・、御堂筋線に乗り換え長堀橋駅下車。 長堀の本社に入り打ち合わせ、一旦吹田の万博記念公園(に在った)研修センターの宿舎に入った。
それから2週間、長堀橋から淀川を超え、自転車で尼崎へ伊丹へ・・・やがて電車が三ノ宮駅まで開通し、住吉から三ノ宮地域の調査。
長田の罹災現場は2週間の仕事を終えてから入った。 変形した高速道路と焼け崩れた工場・・・
法善寺横丁や道頓堀川を散策してアメリカ村で購入した革のジャンパー。
持ち合わせが少なかったので牛革が買えず、山羊革にしたのだが、今でも着用している・・・
それから、ファスナーの交換をしたけれど、もう、25年も経ったんだ・・・
そのとき、生まれた歌
「地震にも負けない 強い心をもって 亡くなった方々のぶんも 毎日を大切に 生きて行こう
傷ついた神戸を もとの姿に戻そう 支え合う心と 明日への 希望を胸に 響き渡れ
僕たちの歌 生まれ変わる 神戸のまちに 届けたい わたしたちの歌
しあわせ 運べるように 」 作詞・作曲 臼井 真
それから16年後の3月11日14時46分頃、マグニチュード9.0の観測史上最大の地震が起きた。
神戸で生まれた歌は、やがて気仙沼の鹿折(ししおり)小学校で歌われ、各地に広がった。
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