「粟田口といふ所より、車は返しつ。 ほどなく逢坂の関越ゆるほども、
『さだめなき 命は知らぬ旅なれど またあふ坂と 頼めてぞゆく』
野路といふ所は、来し方行くさき人も見えず。 日は暮れかかりて、いと物がなしと思ふに、時雨さへうちそそぐ。
『うちしぐれ ふるさと思ふ袖ぬれて 行くさき遠き 野路の篠原』
こよひは鏡といふ所に着くべしと定めつれど、暮れはてて行き着かず。
守山といふ所にとどまりぬ。 ここにも、時雨なほ慕い来にけり・・・
今日は十六夜の夜なりけり。 いと苦しくてうち伏しぬ」
鎌倉時代の1279年、藤原爲家の側室・阿仏尼(あぶつに)が遺産相続を廻って幕府に上訴するため、鎌倉に向けて京を出て綴った紀行文「十六夜日記」だ。
阿仏尼自筆の原本は下冷泉家(元公家)に伝来していて、日記には題名が無く、当初は「阿仏日記」などといわれていたのだが、日記の日付が旧暦の10月16日だったことから、「十六夜日記」となったらしい・・・
そう言うことで十五夜の翌日の夜を「十六夜(いさよい)」と言い、「ためらう」や「躊躇する」ことを「いざよう」と言うが、この言葉(いざよう)は、十五夜の月の出に比べて翌日の月(十六夜)の出が少し遅れて出ることから、同じ月なのになぜタメラッている(出て来る)のだろう・・・と当時は想像したのだろう。
今日散歩に出ると、気に掛けていた県道沿いの雑草が奇麗に刈られ、反対側の藪に捨てられていた。
ゴミ袋に入れれば良いものを・・・と思ったが、通学路がキレイになったことで「良」としよう・・・
田圃では、「今年は台風も来ないし、天候も良かったので良いコメが出来たよ」
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