今日の散歩道で、「つくし」を新たに見付けた。
いつもの西戸耕地の畦道を早足で歩いていたが、今日は北風も在り畔を注視しながら歩いてみたのだ。 すると、水路の西側の畔に2~3㎝程の土筆が数十本見付けたのだ。
さて話は変わるが、
NHKTV番組「青天を衝け」の渋沢栄一が尊王攘夷運動に傾注していた頃、隣接する岡部藩の陣屋に高島四郎太夫(高島秋帆)が幽閉されていたのだ。
と言っても、浅学非才な僕は「高島秋帆」なる人物を知らなかったのだが、深谷市のホームページによると、
「高島秋帆-寛政10年(1798年)長崎の町年寄の家に生まれ、父の後を継ぎ町年寄や鉄砲方を務める傍ら、広く蘭学を修め、特にオランダ人を通じ砲術を研究、西洋式の砲術を創始した。 天保年間には欧米のアジア進出の危機に備えて、砲術の改革を幕府に進言などをした」
と在り、1841年(天保12年)幕府の命により、江戸近郊の徳丸ヶ原(現・板橋区高島平)で西洋式の砲術訓練を実施、兵術・砲術を紹介した。
そのことで、伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門を始め、多くの幕臣が彼の下に入門したが、翌年中傷により獄に投ぜられ、赦免される1853年(嘉永6年)まで、岡部藩預かりの身となった-と在り、江川太郎左衛門ら門人たちの赦免懇願と、ペリー来航を期に幕府は急遽「秋帆」を赦免。
その後、秋帆は幕府の講武所教授方頭取、講武所奉行支配などを務めた、日本の西洋式兵学の祖なのだ。
高島平は今では東京都の物流の拠点であり大型団地が在るが、明治3年以前は浦和県であり新河岸川沿いの原野で、高島秋帆が西洋式砲術の訓練をしたことで「高島平」と呼ばれるようになったのだそうだ。
この地表で繰り広げられた人々の暮らし。 それが次代に大きく影響されれば歴史上に残されるのだろうが、現代では後世に個々が種々の方法で軌跡を残す・・・社会のゴミ
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